第三章 ”イベント”の街 カーフィス
第五話 消せない罪 前編
聞きたくないなら聞かなくてもいい、他人の苦労話なんて聞いてもしょうがないだろうからな。
・・・そうか、聞いてくれるか。ありがとう・・・。
俺は十八年前、田舎の小さな村の、小さな病院で生まれたんだ。
そのときの時代に似つかわしくないのどかでひっそりとした村で、ここみたいに近くに海があって毎日のように潮の満ち引き、波の音を感じられる村。
今、そんな村があるのかって?
世界は広い。どんどん発展していく場所もあれば何も変わっていかない場所もあるさ。
ん?納得してないな?まぁ、いい。続ける。
俺の住んでいたところは普通の一階建ての一軒家。でも君らの言う普通とは違うだろうな。俺たちの住んでいたところでの「普通」の話さ。
家族構成は父さん、母さん、そして俺の三人。
父さんはこれまた普通のサラリーマン。しっかりものでまじめな人。少し厚めの丸眼鏡が目印(目印ってのはおかしいかな)の人だった。母さんを心から愛し、俺も愛してくれた。
いつも見せる笑顔、その笑顔に俺は、何度安心感を持ったことだろう。
そして母さん。
母さんは優しかった。今、こうして目をつむり、手を握ると母さんの温もりがよみがえってくる。
泣いていたときに温かく包んでくれた母さん。悪いことをしたときにしかりつけてくれた母さん。
テストでいい点を取ったときに優しく微笑んで、頭を撫でてくれた母さん。
どんなことをされたって大好きだった。本当に・・・本当に大好きだった。
近所からは仲良し夫婦って呼ばれていたらしいね。俺はそのときよくわからなかったけど自分の親がそういうふうに言われるのは悪い気分ではなかったな。
普通の家庭、普通の生活。決して豊かとは言えなかったけど俺は幸せだった。
この生活がずっと続けばいいと思っていたんだ。
そんな日が続く中、二人目の子供、そうユウタが母さんの中に宿ったんだ。
父さんと母さんは新しい子供の誕生に、俺は新しい弟の誕生に、そして兄になれるという嬉しさに喜んでいた。
その時は一日一日が長く感じた。早く生まれてくれないか、そう自分の心の中が昂ぶっていくのを感じていたんだ。
そして、そんな気持ちの昂ぶりを抑えながら月日を過ごしていく。
しかし、出産の前の日、医師が父さんと母さんに話をしているのを俺は耳にした。
それはこのままだと母体が危ないということだった。
選択肢は二つ。産むか、やめるか。
母さんは優しかったからもちろん産むことを選んだ。
父さんは反対した。俺はその場で争っているのを聞いていた。初めて見た父さんの怒った顔。いつもの笑い顔がゆがんでいるのを見て、俺は恐れを覚えた。
結局、母さんは最後まで屈しなかった。父さんは最後まで反対していたが「勝手にしろ」と言って病室を出て行ってしまった。
母さんが言っていたことはこんなことだったような気がする。
「せっかく息づいたこの命を私は消すことなんて出来ない」
「今、この子を殺したら私は殺人者になることになる、私はその重みには耐えることは出来ない」
「私の命で、この子が人生を歩み始められればそれでいい」
病室に残された母さん。俺は父さんがその場から去っていくのを見送ってから病室に入った。
俺は母さんの傍に立ち、母さんの顔を見た。弱々しく、いつもより白い顔をしていたが、その顔はいつもどおりの母さんの笑顔だった。
死ぬ、ということを俺はまだしっかりと理解していなかった。実感がわかなかった。
「母さん・・・大丈夫なの?」
「タカト、大丈夫よ。私の中にタカトの弟がいるの。それをあなたに見せてあげたいから私は頑張る。大丈夫よ・・私はいなくなったりしたりしないから・・・・。」
そう言って俺の手をぎゅっと握った。
「母さん・・・頑張って。」
俺はその手を握り返して、そして母さんにゆっくりと言った。母さんは一つうなずいた。
「でも・・」
母さんが笑顔のまま、声を落として言った。
「?」
「もしものときは・・ユウタを守ってね、タカト、お願い・・・。」
「ユウタ?」
いきなり発せられた単語に俺は首をかしげる。
「そう、この子の名前。ユウタ。漢字で書くと「優太」ね。タカト、お願いね。」
「・・・・・。」
俺は母さんとの約束を胸にしまい、一つコクリとうなずいた。
出産は難産。恐れていた通り、母さんは・・・・
戻ってこなかった。
そのかわりに聞こえたのは大きな産声。弟が産まれたことへの喜び、そして、母さんを失った悲しみ。その二つが入り混じって、俺はどうしたらいいのか分からなくなる。
・・・母さんの安らかな死に顔を見る。その顔は死ぬ前と何も変わらない綺麗な笑顔だった。
俺は赤ん坊を抱かせてもらった。大泣きしていた赤ん坊。
しかし俺が抱き上げると泣いていた赤ん坊がぴたりと泣きやみ、笑顔を見せる。
母さんと同じ、屈託のない笑顔。俺はそのとき感じたんだ。
これが死、これが生。二つの感覚が共に俺の中に流れ込んでくる。
「優太・・・・。」
これが死ぬってことなんだ・・・これが生きるってことなんだ。
母さんの強さはこの子に受け継がれている。
俺は生命の流転を感じていた。
・・・・・涙が自然と溢れていた。母さんが名づけた赤子の名をつぶやきながらその子、「優太」を抱きしめていた。
「母さん・・・・俺・・・。」
母さんと約束を交わした・・・。俺は、優太を、守る。
母さんと優太は別々の場所へ連れて行かれる。父さんは母さんに付き添って、俺は優太の方に付いていく。俺は一人、ガラス越しに小さな部屋を眺めていた。中では先程まで泣いていたのが嘘であるかのように優太がベビーベットで眠っていた。
ふっくらとした顔、小さな手、まだ開かれていない瞳。まだ切ったばかりのへその緒の痕。
小さな命がそこで息づいていた。俺はガラスに両手をつけ、食い入るように見つめていた。
この子が・・俺の弟。
優太・・・・。
そのとき、コツコツとフロアーを靴の音を鳴らしながら歩いてくる姿があった。
「・・・・父さん?」
その姿は父さんだった・・のかもしれない。
今まで見たことのないような顔をしていた。泣きつかれて水分がすべて抜け、枯れてしまったようにやつれている。いつも整っていた髪形もぐしゃぐしゃに乱れ、足も歩くのがつらそうに一歩一歩ふらふらと進んでいる。
「とう・・さん?」
俺がもう一度言っても父さんは反応を示さなかった。
父さんがそのまま俺の傍まで来る。そしてガラス越しに優太を見つめた。
いまだに中の光が反射して眼鏡の中の表情を見ることは出来なかった。
「とう・・。」
もう一度俺がそう言おうとしていたときだ。
「・・・・せいだ・・・。」
何か父さんがうぶやくのが聞こえた。
「?」
「お前の・・・せいだ。」
・・・!!
俺は見たんだ。ガラス越しに優太を眺めていた父さんの顔がギリギリと歪んでいるのを。
眉間にしわを寄せ、眼鏡の奥には鋭い眼光が映っていた。
それはまるでガラスがその睨みによって溶けてしまうのではないかというほど。
父さんはずっとガラスの向こうを睨み付けている。
そこには・・・
夜叉がいた。
「父さん!!」
俺はなんだか嫌な予感がして、そして怖くなって、すかさず父さんの服の裾をつかんだ。
すると父さんは一瞬ビクッ、と反応して俺を見た。驚愕の表情から笑顔を作り、俺に見せる。
しかし違和感がある、瞳はトロンといしていて実際俺には焦点があっていないような気がした。
「タカト・・・今日は、もう帰ろう・・・。」
気のせいだったのか?今のは・・・。俺の・・見間違い?俺はごしごしと自分の目を腕でこすり、そしてまた父さんを見た。やつれているようには見えたがいつもの父さんだった。
優太は、一週間くらいは病院で検査の為に過ごすそうだ。俺は父さんと一緒に病院を後にした。
俺は・・・先ほどに見た夜叉の顔を忘れずにいられないまま帰路を歩いていた。
歩いているときに父さんの表情を見ると眼鏡の奥はレンズに光が反射して見ることはできないが、口元を見ると笑っているような感じはした。
気のせいだったんだよな。母さんが死んでしまったとはいえ、母さんの望みで産まれてきた子供だ。きっと父さんも喜んでいるはずだ。きっとあの眼鏡の奥にはいつものあの優しい瞳が映っているはず・・・・。
俺はそう信じながら歩調を軽やかに父さんについていく。
しかし、俺はまだ気付いていなかったんだ。
まだその時は。
これから俺は、父さんの本性を・・・・
あのときの夜叉を・・・
見ることになるとは。
耐え難い現実を知ることになろうとは・・・
そして、俺の決意が揺らぐことになろうとは・・・。
俺の父さんを信じる気持ちとは裏腹に、頭の中ではあのときの、
「お前のせいだ」
その言葉が意味もなく繰り返されていた。
その日以来、父さんは変わってしまった。
仕事にはちゃんと行く。しかし、帰ってくるときはいつもひどく酔っている。前まではめったに酒なんか飲まなかったのに
煙草も吸うようになった。・・・すべてが変わってしまった。
そんな父さんの変異を俺は不安を覚えながら見ていた。
それだけならまだよかったんだ。
父さんは、母さんが死んだ日から俺をよく叩くようになった。
始まりは母さんの葬式が終わった後。親戚の人たちが帰った後に父さんは一人ぶつぶつとつぶやいていた。俺はその隣で父さんを見上げている。そして、それは突然。
ばしっ
鈍い音が鳴った。それが自分が叩かれた音だと気付いたのは頬の痛みを感じた時だった。
何・・・?
俺は多分そのとき、きょとんとした目で見つめていたと思う。
訳が分からなかった。俺は状況を飲み込めずに叩かれた頬を抑えて父さんを見ていた。
それもそうだろう、酒を飲んでいるわけでもない、ただでさえこんな風に叩かれたことはなかった。
こちらを真っ直ぐに見た父さん。眼鏡の奥に潜む鋭い眼光。こちらを睨む目。
そのときの顔は・・・
「あ・・・。」
あのときの、病院で見た、夜叉だった。
世間体を気にしてか父さんは顔に傷をつけないよう、体の見えない部分を叩く、蹴るを繰り返した。
やめて、そんな言葉も通じない、叫べば叫ぶほどうるさい、と叩かれた。体につくられていく痣。それは毎日のように繰り返される。俺は泣きながらもきっとまたもとの父さんにもどることを信じて耐えていた。俺には外見からは判断できない傷が、いつのまにか体の各所に出来ていた。
父さんが俺にしたことはそれだけじゃない。
夜に父さんがいつものように酔って帰ってきたときだった。俺はまだ寝るには早い時間だったので、居間でゆっくりとくつろいでいたんだ。
居間に現れた父さん。また叩かれると思って俺が竦みあがっていると父さんはゆっくりとこちらに近付いてきた。
「と・・とう・・さ・・。」
小さな声でそうやっと喋ることが出来た。
「・・・・っ。」
目の焦点があっていなかった。何かぶつぶつと喋ると父さんは俺を近くに引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。酒臭い匂いと混じって、父さんの匂いが、体温が伝わってくる。
「とう・・?」
俺はいつものように叩かれると思っていた。
このようにいきなり抱きしめられて(あぁ、もとの父さんに・・)と思った。しかし、それは違っていた。
それは次の言葉を聞いて分かった。
「由梨・・・帰ってきてくれたんだね・・・・。」
・・・!?
それは母さんの名前だった。父さんは俺を、母さんに顔立ちの似ている俺を母さんと間違えているんだ。
俺は反射的に父さんから離れようとする。それでも父さんはぎゅっと俺を抱きしめ、そして服を脱がしていく。荒々しく脱がして、そして強引に・・・
俺は父さんに犯された。俺を母さんと錯覚している父さんは俺を強く抱きしめ、また強引に唇を奪い、体中を舐め、そして父さんのものを・・・・・。
俺は嫌で、嫌で・・・拒絶を繰り返していた。それでも父さんは、まったくやめようとしない。
そのときには何をされるのか分からなかった。ただ、自分の中で警鐘が鳴っているのだけは気付いていた。
「や・・・やめっ・・。」
引き裂かれる、貫かれる。痛み、激しい痛み・・そして後にこみあげてくる快感。
俺は拒絶を繰り返す中でも、どこかでその快感の渦に飲み込まれていった。
もう理性などはなかった。落ちていく、その表現がぴったりだった。
気付いたときには俺は父さんの精液まみれで仰向けになっていた。
父さんは無意識にしたのか、寝間着を着て、別の部屋で横になっていた。
俺は一人、体につく液をふき取り、そして服を着た。
俺は・・・。何が何だか分からなかった。無理矢理だった。
しかし、やられたことを思い出すとまた自分の股間が熱く脈打ってくる。
「くそっ・・・」
悪態をついて俺は一人その場で泣き崩れる。父さんが起きないように声を噛み締めて・・・。
自分がとても惨めに感じられた。
父さんとの夜の交わりはその一回だけだった。
しかし、俺に対する暴行は収まらなかったんだ。
俺は何度もどうしてこんなことをするのか聞いたことがあったんだ。
聞いてもまったく答えてくれなかった。喋るとすぐに殴られた。
「どうして、どうして・・・こんなこと?」
俺がそう言って、あの夜叉の顔を向けた父さんに語りかけた。
今までまったく答えてくれなかった父さん。それがピタリと動きを止めて言ったんだ。
「おまえが・・・おまえが・・・由梨に似ているからだ・・・。」
虚ろな瞳から一筋の涙を流しながらそう父さんは言った。
父さんには納得がいかなかったんだ。自分の命を捨ててまで新しい命を産み出そうとする、母さんの行動が。母さんの性格だからと言えばそれでいいかもしれない。
でも、それだけ母さんを大事に思っていた父さんは・・・・許せなかったんだ。
母さんを大事だと思っていたからこそ、俺を見ると母さんのことを思い出す。
愛情は・・・裏を返せば憎悪を生む。それは、すべて俺に向けられた。
俺と同じく、普通の家庭の、普通の生活で幸せだった。
壊れる可能性のあることを無理にする必要はきっと、ない。
そう考えていたんだ。
涙をぬぐい、ふらふらと歩き始めた父さんは最後に背を向けたまま言った。
おまえに・・・何が分かる・・・。