特別章
プロローグ
あるとき、あるところ、ある場所での小さな物語
ここはある街、ある場所にある小さな洒落たバー。店の中全体が薄暗く、酒の仄かな匂いが充満して、物静かで少し怪しげな雰囲気が何気なく大人の雰囲気を醸し出していた。店全体に静かにジャズが流れている。ちょっと前に流行ったであろうその曲が雰囲気によく合っていて、その場にいるものはそれに耳を傾けながら感慨深く酒でのどを潤していく。
「親父、もう一杯くれ。」
「あ、俺も。」
小さな店の中のカウンター席、四つ並ぶ椅子のうちの二つに、一人の人間の男と一人の熊獣人の男が腰掛けていた。少しすすのついた作業着を着ていて、それが二人が仕事帰りに立ち寄ったのであろうことを思わせる。二人は空になったグラスをカウンタ内にいる白い髭を鼻の下に伸ばした初老の男性に向けた。その男性はただ静かに頷いて、そしてまたグラスに酒を注いでいく。トクトクトクという単調な音を立ててグラスが満たされ、中の氷がグラスにあたり、カランと綺麗な音を立てる。
カウンタには二つのグラス以外に一つのラヂオが置いてあった。ボリュームは落としてあるものの店内が静かなためか否応なしにその声が聞こえてくる。そこでは一ヶ月前に起こった盗賊による街の襲撃事件について説明をしていた。
えー、一ヶ月前に盗賊に襲われたイルナの街の被害状況をお伝えいたします。あまりにもひどい惨状のため捜索が難航しており、現在分かっている死者数は百人を越えています。まだ救助を行うには危険とされる区域があるため、死者数はまだ増えそうです。このことについて種族研究家の・・・さんに話を・・・
最後の方ははっきりと聞き取れなかった。すぐに他の事件に話が切り替わる。
これを聞いて、何人の人が心動かされるのであろうか。
きっと本当に一握りしかいないのだろう。人なんてものはそういうものだ。自分はそこにいなかったから関係ない、その場でいくら悲惨な事件が起ころうとも、結局は他人事でしかない。そうやって他人のふりをして関わらない方がいいと感じているのがほとんどだ。関われば自分が何か酷い目にあうに違いない。所詮は、卑怯な生き物。
・・・・きっとそうだ。
俺はどっちなんだろうな・・・やっぱり・・そうなんだろうな。
二人の壮年の男性はラヂオを聞きながらグラスを眺めていた。
結局は他人事でしかない・・・か。
自分でそう思って、空しく感じてしまう。静かな時が流れる。
グラスを満たす透明な酒が氷を通してさらに美しく見える。
しばらくグラスの中の氷をカラカラと無造作にまわす。二人は無言でその行為を続け、隣にいる男はどう思っているんだろうかとお互いに思慮を重ねる。もちろん、お互いどんなふうに思っているのか、それに加えてこのラヂオの内容を気にしているかもさえ、知れない。ただ、知れるのはお互いが考え込むような仕草をとっているという、その外面上の表情のみ。
酒のせい、だな。こんなにしみじみとした気分になるのは・・。
こんなこと考え出したらキリがない。それは分かっていることだ。分かっていることなのに、悲しくなるな。
あぁ・・・何だろう。何だか自分が本当にちっぽけな存在に思えてきた。
静かな空気の中、語りだしたのは人間の男のほうだ。
「なぁ、お前知ってるか?ここから東にあるっていう街の話。」
「街?」
グラスの中の氷をしげしげと見つめて、ぼーっとしていた熊獣人の男が顔を向けた。
「あぁ、実はな。宿の主人から聞いたんだが、ある泊まりにきた一人の旅人が話してくれたらしい。その街はあまり知られていない小さな街でな。そこに行くと、昔に会った知人や旧友、別れた家族などに出会えるって言うんだ。その旅人は、昔別れた妻に会えたって言っていたらしい。」
そこで一度話を止めて、人間の男の方は一口酒を飲んだ。
へぇ、と熊獣人の男は相槌を打ち、グラスの氷をクルクルと回しながら話の続きを待つ。
「その後、その旅人はふらっとどこかへ消えてしまったらしい。どこへ行くというのも告げなかったらしいよ。宿の主人が言うには何だか生気が感じられなかったってさ。なんだか、こう、虚ろな目しててさ。お代だけおいてさっさと出ていっちまったらしい。誰もその後、その旅人を見たっていうやつはいない。どこへ、行ったんだろうな・・。」
声を落としてそう言った人間の男の眼差しに、ぶるっと熊獣人の男が体を震わす。後ろに何かを感じた気がして振り返ってみたが、そこにはもちろん何もいなかった。この店が薄暗いこともあって悪寒を感じずにはいられない。暗闇からなめられるような視線。見えていないものが、こちらをただ見てくすくすと笑っている。もとから怖い話をしているわけではないのだろうが、雰囲気がそうさせてしまう。彼はこういった話が大の苦手だった。
「何?お前は俺を怖がらせようとか思っているわけ?」
熊獣人の男が人間の男をまっすぐに見つめてそう言った。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。すると人間の男が、訳が分からないと言った顔つきになった。そして、何かに気付いたように手を横に振った。
「あ?違う違う。怖い話なんかじゃないっての。まったく、お前のその怖がり性はどうにかならんのかね。」
そう人間の男がたしなめるように言うと、熊獣人の男がむっとした顔をして酒を一気に飲み干した。がたっと大袈裟にグラスをカウンタの上に置く。まわりの視線が一時向けられたが、すぐに我関せずとまた自分の時間を楽しみだした。
「怖いものは怖いんだ!!」
今にも掴みかかってきそうな熊獣人の男をなだめて、人間の男が今度は酒を飲み干す。熊獣人の男は不機嫌なまま、また椅子に落ち着いた。もう一杯飲みますか、とカウンタ内の男に尋ねられて、それを二人は断った。
「はいはいっ。もう一回言っておくがこれは怖い話じゃねぇ。でな、その旅人は行き先は告げなかったが、その話の最後にこう言ったらしい。」
「何て?」
ゴクリと唾を飲み込んでその答えを待つ。人間の男が空になったグラスを前方に向けて、グラス越しに熊獣人の男を見た。グラス越しに見た顔はガラスの屈折により歪んで見えたが、その顔が強張っているのがはっきりと分かった。グラスを通して見る表情が熊獣人の男には得体の知れない何かのように思えた。彼から見る人間の男の表情もまた、歪んでいた。彼は眉根を寄せて真剣な表情を見せていただけだったが。
グラスを少しずらして片目だけで熊獣人を見つめ、言葉を紡ぐ。
ゆっくりと。
あそこは・・・“思い出に出会える街”なんだ、と。
外の空気は異様に冷たく感じられた。それは今までずっと暖かい空気の中にいたからであろうか。全身を刺すような寒さに熊獣人の男がぶるっと体を震わす。今度の震えはもちろん怖いから、ということではない。
吐く息が白い。豪快に吐き出されたそれは、まるで自分が怪獣になったかのような気分にさせてくれる。それは子供の頃に味わったことのある感触だ。それが何だか懐かしくて、楽しくて、つい微笑んでしまう。
街はほとんどのところが眠りに付いているのか、点々としか明かりは灯っていない。その光が人魂のようにも見えてくる。とにかく、夜は嫌いだ。はやく電気のこうこうとついた我が家へ帰りたい。
ぽつぽつと灯った明かりを眺めながらゆっくりと暗がりの街を歩く。
熊獣人の男と人間の男。熊獣人の男が人間の男を支えながら歩く。
「・・・思い出に出会える街、か。」
人間の男がぽつりとそうつぶやいた。
話を切り出されて、熊獣人の男はふらふらと歩く人間の男の顔を見つめた。顔が酒のために赤くなっているのが分かる。人間の男は支えを振りほどいて、酔いを醒ますようにぶるぶると顔を横に振った。
「あぁ、さっき言ってたやつか。そんな街が本当にあるのかね?」
「どうかね、俺も言伝だし半信半疑ってところだな。宿の主人が適当に言った作り話かもしれねぇし、本当なのかもしれない。ここに来てからまだ半月ぐらいだからよく分からねぇけど・・・・東にそんな街なんてあったか?お前知ってるか?」
うーんと少し考えた後、熊獣人の男は言った。
「さあ?あっちには行ったことが無いからな。それに東に見えるのは高い山だけだしな。確かめようにもそこまで行く気にはならねぇよ。」
そうだよなぁ、と言って人間の男が空を見上げる。目線の先には満天の星空が広がっている。雲一つ無い夜空に散りばめられたような満天の星空。
今、彼らがいる場所は毎日のように涼しい、または寒いという気候である。
しかし、山を越えた所はそれとは真逆に暑い気候らしい。まるで山によって気候が区分されているようなものである。山の上で何かが起こっているか、どうしてそんなふうに気候が分断されているのかは分かるはずもない。ただそう言った地域もあるのだという認識をすることのみが許されている。ただ、それも旅人の話。確かではない。
「でもさぁ、そんな街があるんだったら一度だけでも訪れてみたいと思わないか?・・おっと。」
熊獣人の男がふらついた人間の男にもう一度手を回して支えてやる。
「気をつけろよ。」「悪い悪い。」
熊獣人の男はまったく、と一人ごちてからそのまま人間の男を支えながら歩く。
「もし、さ。もしそんな街があるならな。俺はもう一度だけ、もう一度だけあいつに会えたらな、って思うよ。」
感慨深く、そうつぶやいた人間の男の声は少し涙声になっているような気がした。
「あいつ・・・あぁ、お前の嫁さんか。バカヤロウ、あの人は一年前に亡くなっただろ。」
人間の男の気持ちが伝わったらしく、熊獣人の男も声を落としてそう言った。慰めるようなそんな声だ。人間の男が諦めたように息を吐き、ぐすっと鼻をすする。肩を落として支えられながら歩く男の体重をまともに受けながら、熊獣人の男はそれでもしっかりと前へと進んでいた。
「だよ・・・な。いくら思い出に出会える、って言っても死人に会えるわけじゃないんだよな・・。」
そう言って思いにふけるように目を閉じる。その人のことを思うように。立ち止まって空を眺める。そんな姿を熊獣人の男は悲しげな目で見つめていた。
静かに沈黙が流れる。ただゆっくりと足を進める。ちなみに彼らは同じ屋根の下で暮らしている。目的地は同じ場所。人間の男の妻が亡くなり、絶望に打ちひしがれていた彼をずっと隣で慰めていたのは熊獣人の男だ。彼の提案で今の街へと越すことを決め、そして今に至る。当初、何も手付かずと言った状態であった人間の男は、ここに来て半月という時間の中でだいぶ元気を取り戻した。だが、時々こういった風にしみじみと昔のことをもらす事がある。無理もない。忘れるなんて事なんて出来るはずはない。
沈黙を破ったのは再び人間の男だ。
「お前には、感謝しているんだ。」「あ?何だよ、いきなり。」
だいぶ酔いが醒めたのか、足は先刻ほどふらついていない。寒さがそうさせたのであろう。
「お前がいなかったら、俺はこうして自分自身を取り戻すことも出来なかっただろう。お前がいたから俺は今まで生きていることが出来たと思っているんだ。・・・本当に、感謝している。ありがとう。」
「な、なんだよ急に。」
面と向かって真剣に感謝されたのは初めてだった。突然の言葉に熊獣人の男の顔が赤くなる。それを見た人間の男の顔も少し赤い。
「いや、な。本当にそう思っている、ってだけだよ。ちゃんとお礼を言った覚えってなかったからよ。」
だからって、酔った勢いでそういうことを言うのもどうかと思うのだが・・・。熊獣人の男はそう言いそうになったが、あまりにも人間の男が真剣に話しているのでその言葉を飲み込んだ。酔った勢いでなくては照れくさくて言えないようなことだったのであろう。
「別に俺は迷惑してないから良いさ。」
格好をつけて何か言おうと思ったが、そうつっけんどんに返すのが熊獣人の男には精一杯だった。せっかく相手が真剣に話してくれているのにこんなことしか言えない自分がもどかしくなった。そんな姿を見て、人間の男は優しく微笑んで、まったく、と一言つぶやいた。どうやら長い付き合いの彼にはこういうことを面と向かって言われることが苦手だということがばれてしまっているらしい。
「でもさ、どうしてあそこまで優しくしてくれたんだ?俺にはあの街を出る理由があった。というか、逃げてきたというほうが正しいか。ただの知り合いってだけだろ?他の皆みたいに当たり障りない態度をして普通に過ごすことも出来たはずだ。」
人間の男はそう言ってから、肩を落とした。昔の自分を思い出したらしい。
葬式が終わった後に、ちっぽけな慰めをかけてくる人たち。無理に励まそうと笑い飛ばしてくる奴ら。式が終われば何も無かったかのように帰っていく。家の外で聞こえてくる笑い声。すべてが邪魔に思えた。偽善に思えた。
だが熊獣人の男、つまり今、隣で歩く男は自分が落ち着くまでずっと傍に座っていてくれた。泣きじゃくる俺をひとしきり泣かせて、眠らせて。
ただの仕事仲間、という関係だった。普通に一緒に仕事をして、普通に飲んで、普通に話して・・・ただのそんな関係。それ以上でも、それ以下でもない。その彼がどうして近くにいるのか、考える余裕もなかった。いつかは他の奴らと同じように帰るだろう。そう思っていた。
だが目覚めたとき、まだ彼はそこに座っていた。笑顔を向けて「大丈夫?落ち着いたか?」と言ってくれた時に、なんて心が安らいだろう。ああ、本当にこいつは心配してくれているんだ、と心から思えた。こいつの慰めだったらいくらでも聞いてやろう、とそう思った。
その純粋な優しさに、すべてを許すような眼差しに、どれだけ癒されたのだろう。
自分の中では、このとき“ただの仕事仲間”から“親友”になった気がする。
人間の男は回想がだんだんといい思い出に変わっていくにつれ、微笑まずにはいられなかった。それを怪訝な顔で熊獣人の男が見つめる。
「おまえ、この歳になってまだ独身だろ?前の街に好きな奴とかいたじゃねぇか。このままこんなむさい男と過ごしていてもいいのかぁ?」
茶化すように人間の男がそう言うと熊獣人の男はむっとした顔を・・・・見せなかった。それが意外な反応だったらしく、人間の男のほうが今度は怪訝な顔を見せた。
「別に俺はいいよ。」
「あ?」
「俺は別にこのままでいいと思うよ。こうして暮らしているのは楽しいし。女と結婚するっていうのも幸せな形だとは思うけど、そんな形にとらわれずにこうしているのも悪くない、と思ってさ。・・・確かに子供は欲しいなってのは思ったことあるさ。だけど、お前が幸せになるまではこうしててもいいかなって思うんだ。だからさ、俺は大丈夫。」
こういうセリフを言うことが苦手とか言う割にはすごいことを言いやがる、人間の男はそう思った。心根が純粋なんだ、と感心する。熊獣人の男は笑顔を向けている。その顔は夜であるのにもかかわらずなんだかまぶしかった。
「でも、なんでここまでしてくれるんだ?ただ“親友”ってだけだろう?」
そう人間の男が尋ねると、熊獣人の男は一度、うーん、とうなった。何かまた考えているんだろうか?
「えっと・・・“親友”ってだけじゃ駄目なのか?」
「はぁ?それだけ!?」
人間の男がそう叫ぶと、ちょっと静かに、と熊獣人の男がたしなめる。
「んっと・・それだけ、かな。多分。」
「くわぁ〜!!お人好し過ぎるんじゃねぇかぁ?くはははっ!!でもそれでもいいや、うんうん。俺達は親友、親友だからなっ!!」
「こ・・こらっ・・こんな夜遅くにそんなこと大声で言うなよっ!!ほらっ。着いたから中に入れ!!」
人間の男は熊獣人の男の背中をバシバシと叩きながらすこぶる上機嫌だった。なんだろうこの嬉しい気持ちは。何故、こんなにも笑いたくなってくるんだろう。
いつの間にか彼らの家に着いていたようだ。熊獣人の男が鍵を開け、先に中へと入っていく。すぐに、恥ずかしい、あぁ恥ずかしいと奥で熊獣人の男がぐちるのが聞こえてくる。
玄関の前に立っていた人間の男はその慌てぶりにまた微笑む。
すぐに中には入らずに、家の外壁に寄りかかって空を仰いだ。
「親友、か。さらっと言ってくれるところが嬉しいねぇ。」
そうつぶやいた声はもちろん中にいる彼には聞こえない。
しばらく自分の掌を見つめて
“親友”
その言葉を噛み締め、そして明るい部屋へと足を踏み入れていく。
お前が幸せになるまで・・・か。
俺は今・・・幸せ、だぜ。お前の考えている以上に、な。
「ほらっ、はやく入ってこいよっ。寒いだろ!!」
「あいあい。」
木製の扉が閉じられ、また他愛のない話で盛り上がる。
そんな盛り上がりを他所に、澄んだ星空の中で一筋の流れ星が、ただ静かに流れた。
行き着く先には何があるのだろう。
何があるのかなんて分かるのか?
いや、分からない。
だからこそ、進もうって思うんだ。
何があるのか分からないから。
分からないなら見つければいい。
その道を、その光を、その温もりを、暖かさを。
そうすればきっと歩いてきた道が輝き始めるから。
真っ白な紙に初めて線を、それも黒とかじゃなくて赤とかで描いていくみたいにさ。
そんな風になんかちょっと変わった形でおもしろおかしく生きていければいいんじゃない?
駄目かな?
いいんじゃない?
行き詰まることもあるだろうけど
行き止まりになることもあるだろうけど
それでも進むんだ。
共に歩いてくれる人が近くにいるから。
共に笑ってくれる人が近くにいるから。
だから前に進めるんだ。
ただ真っ直ぐ進むことなんてないよな?
時々寄り道とかしてさ。
それでも道が出来ていくんだからいいんだよ。
新しい道。線。
新しい日々。毎日。線を描く。
新しい出会い。線を結ぶ。
真っ白な日々に、今日も線を描く。
どんどん書き足していこうよ。
それはきっとつながっているから。
何に?
どうせなら一緒に
笑っていこうや、な?
プロローグ・あるとき、あるところ、ある場所での小さな物語・完